管理人 海外へ行く

~ポルトガル編~

 

2016年 10月17日~10月26日

 

ファティマの土産物屋に並ぶマリア様

 

第7日目(10月23日)

その1

 

1.起床~出発

 

10月23日となり、残す日程もあと2日だ。丸々1日をこの国で過ごすのは今日のみ、明日の16時前にはポルトガルを離れると思うと悲しい。しかし、今、この時を大いに楽しもうではないか。6時30分に目が覚めてそんなことを考えながら、朝風呂に入って気持ちを整える。そして、7時ちょうどに食堂へ下りていき、いつものように美味しいパンやベーコン、いり卵、野菜や果物をたくさん食べる。

 

さて、毎回記載しているのだが、このパンは何でこんなに旨いのだろうか。これがパンだとしたら、日本のパンはパンではない。小麦粉の生地を化学的に膨らませ、焼いたパンのような物でしかない。味わって飯を食べた後、少しゆっくりして今日のプランを確認する。そして、夜が明けたばかりの7時40分頃にホテルを出て、メトロの「サン・セバスティアーノ」駅へ向かう。ここから地下鉄に乗るのだが、今日はカードに課金はしていない。というのも、昨日課金してからまだ24時間が経っていないから有効なのだよ、ヤマトの諸君。

 

ジャルディン・ズーロジコ駅

 

2.バスターミナル

 

2駅北側の「ジャルディン・ズーロジコ」で下車する。そして、駅を出て、昨日下見しておいたバスターミナルへ上がっていく。そこは既に、大きな荷物を持った旅行者で賑わっており、長距離バスが重要な交通機関であると認識した。窓口へ行き「ボン・ディア」と挨拶をすると、若い女性が同じく「ボン・ディア」と返してくれた。これだけでも朝からテンションは上がるものだ。

 

バスの切符売り場

 

そして「ファティマに行きたいんだが」と続けると、片道か往復か、何時に乗りたいのかをたずねられた。もちろん、リスボンに帰って来るので「往復」だが、往路はともかく、復路の時間を考えてなかった。そこで、昨日手に入れた時刻表を見ようと思ったら、端末の画面をこちらに向けてくれて「何時にするのか」と示してくれた。それを見ながら、往路は8時30分、復路は17時と答え、切符を発行してもらう。まあ、滞在時間が7時間なら、そこそこ見てこられるでしょう。そして気になる料金だが、片道€10.8と激安であった。

 

150㎞離れた街まで1,200円とは、驚いた。ところで、今日の遠征地であるが、実は高速鉄道に乗って「ポルト」や「コインブラ」と言う手もあったのだが、3時間程度かかるということ、田舎街へ行きたいという気分なので、近場で1.5時間の「ファティマ」にしたのだ。

 

さて、乗り場へ行くと20台程のバスが並んでいる。いったいどの車両に乗ればよいのか。切符を確認すると、「11」と「12」の2つの数字が並んでいる。このどちらかが乗り場の番号だろう。ここで、電光掲示板を見ると、8時30分発は「BRAGA」や「AVEIRO」他行きがある。このうち「BRAGA」行きが2番LIHNA(ライン)の11番と表示されている。多分これだろうと当たりをつけて、2番モトカリヤ「リーナ」のバスの前にいる運転手に「ファティマはこのバスでよいか」と聞いてみた。すると「切符を見せろ」言うので提出すると「ここに11と書いてあるだろう、これがバスの番号だ」と教えてくれた。なるほど、じゃあ「12」は座席番号だろうと推測できた。ありがとよ、運転手さん。

 

バスターミナルの様子

 

メルセデス製のバスに乗り込み「12」の座席に座る。このシートはフレームに網が張ってある会議室によくある型の座席で、ペラペラだけど座り心地が良い。今日はいったい、どんな所を走っていくのか、楽しみであり期待が高まる。

 

乗車するバス

 

3.ファティマへGO

 

出発時刻になり、数台のバスが一斉にターミナルを出ていく。そして、最初はチマチマした市街地を器用にすり抜けたと思ったら、料金所を通過した。どうやら高速道路に乗ったらしく、空港の東側を通って北上を開始した。それにしても、このバスはサスペンションが素晴らしく、日本のバスよりも明らかにトレッドが広いので、至極快適である。メルセデスはこういう実用的な車両に対して高い技術力を惜しみなく発揮してくれる、庶民的な会社なんだけどなぁ。リスボン市街地を走るタクシーだって8割はメルセデスだし。日本人のブランド信仰は「滑稽だ」と、改めて感じた。

 

バスはいつの間にか、オリーブ畑の中を貫く郊外を巡航していて、時々何かの工場が見える。そして、遠くの山々には点々と風車が立っている。ガイドブックによれば、ポルトガルは再生可能エネルギーに開発に力を入れているそうで、風車が多く設置されているのはそのせいだ。そうかと納得していたら、コンクリートの塔が見えてきた。いやいや「原子力発電所」じゃあありませんか。ただ、これについて帰宅後に調べてみたら、この国は既に原発を廃止することなっているということだった。

 

さて、市街地の運転マナーはあまりよくないと記載してきたが、高速道路はどうだろうか。やはり、割り込みや不意のブレーキが多く、その度にバスもきつめのブレーキを踏まざるを得ないようだ。走っている車の数が少ないのがせめてもの救いで、ちょっと間違えば事故にもなりかねない。

 

高速道路の様子

 

さらにバスが進んでいくと、雲行きが怪しくなってくる。そして強めの雨が降り始めた。さっきはあんなに晴れていたのに、まるで山の天気だよ。今日も雲の流れが速いな、そんなことを考えていたら眠くなってきた。少々疲れも溜まってきているのだろう、しばらく寝るとしようか。

 

ウトウトして目が覚めると、時刻は9時40分過ぎだ。おお、あと10分ぐらいで到着だな。そう思っていたら、バスは高速道路をおりて、田舎道を進んでいく。そして、いくつかのラウンドアバウトを通過した後「ファティマ」のバスターミナルに止まった。

 

4.信仰に触れる

 

今までポルトガルの都会をメインに巡っていたので、こういう田舎街に来ると、とても安心できる。そう思いながらバスを降りると、少しひんやり感じる。これはさっきまでの雨の影響だろう。しかし、昨日の回でも記したように、当方は強力な晴れ男である。この時には雨はすっかりと上がって、晴れ間が出てきた。

 

ところで「ファティマ」という街は、あまり知られていないと思うので、少し解説をしておく。ここは特に何があるというわけではないのだが、1913年5月13日から数か月に渡り、月ごとに「マリア様」が現れた場所だ。それを目撃したのは羊飼いの子供達3名で、彼らは「毎月この場所でお祈りをしなさい」とか、「ここに礼拝堂を建設しなさい」とお達しを受けたそうだ。さらに、最後の出現となった10月13日、大勢の人が集まった中でマリア様が消えゆく際「太陽のような光がグルグルと回りながら遠ざかっていった」ということだ。

 

それ以来、この街は「カトリックの聖地」となり、多くの参詣者が訪れるようになる。そして、毎年10月13日には10万人規模の巡礼者が集まり、祈りをささげる。なるほど、バスターミナルから街へ出てみると、路面に敷かれた石畳や建物は至って新しいものが多い。また、至る所にマリア様や、件の3名の子供の像が見られる。ところで、聖母マリア様は「Abe. Maria」と表記されるようだ。なんだ「アベさん」だったのか、そんなわけないでしょ。

 

バスターミナル周辺の様子

 

独りでボケとツッコミをしながら歩いていくと、そのカトリックのシンボルと言える「バシリカ」が見えてくる。この「バシリカ」とは教会のことであるが、Wikipediaによれば「特にローマ教皇庁が認めた教会のことを指す」ということだ。どういうことかと言うと、先のアベさん、いや「マリア様」が現れた際、彼女は予言を遺している。それは、「もうすぐ戦争は終わる」こと、そして「3人の子供のうち、2人はもうすぐ私が連れて行きます」ということ、そして3つ目が「ローマ教皇が暗殺される」というものだ。

 

これらは「ファティマの予言」と呼ばれており、その結果はご存知の通りである。第一次世界大戦は1918年のパリ講和条約で終結し、ドイツに多額の賠償金が課せられ、これがヒトラーの台頭に繋がったと見る向きがある。また、子供達のうち「ルジア」と「フランシスコ」は数年後にインフルエンザ(スペイン風邪)に罹患して、この世を去った。さらに、1981年の5月13日(マリア様の出現と同じ日)に、時のローマ教皇「ヨハネパウロ2世」が銃弾に倒れたのだ。教皇は一命を取りとめ怪我から回復した後、お礼参りとしてファティマを訪れたということだ。ウソみたいな話だが、これらはヴァティカンの教皇庁も「正式」と認めている出来事なのだよ、ヤマトの諸君。

 

能書きがはこの辺りにしておこう。まずは「バシリカ」の手前にある、円形の「三位一体の礼拝堂」に入る。今日は偶然にも日曜日なので、ミサが行われている。とても厳かな雰囲気に包まれた舞台の上で、僧達が呪文みたいなことを言っている。また、この舞台には十字架にかけられたキリスト像があり、背後のモザイク画はマリア様に導かれた民衆が描かれている。「キリスト教ここに極まれり」という趣の中、ミサが進行していき、幟みたいなものを持った僧達が並んだり、儀式の合間の時々に、控えている聖歌隊が讃美歌を歌う。

 

三位一体の礼拝堂

 

ミサの様子

 

そうしているうちにも次々に人が入ってくるのだが、あるロシア人と思われる女性には驚いた。入ってくるなり、キリスト像を見てひざまづいて「ああ、キリスト様」という雰囲気で祈りをささげ、十字を切っているのだ。こういう感覚は日本人には無いもので、宗教というものの深さをまざまざと見せつけられた気持ちだ。一方、中東方面の出身と思われる金持ちの信者も見られたのだが、この人たちは「ファッション」的に信仰しているようだった。また、その子供達は無邪気に遊んでいるのだが、その顔つきは「将来美人になる」と確信できる程に整っていた。

 

ミサの内容は全く理解できないが、こういう場所に来ることは今後はないだろうということで、当方も周りの人を見ながら十字を切ってみたり、ソーメン、じゃなく「エィメン」と言ってみたりする。こんなことをしても仕事が見つかるわけでもなく、金が儲かるわけでもなく、勉強ができるようになるわけでもない。そう思ってしまうのは、自分が無神論者であるからであるし、それは今後も変わりないだろう。

 

5.本山のバシリカ

 

気分だけカトリック教徒になって、三位一体の礼拝堂を出る。すると、そこに先先代の教皇である「ヨハネ・パウロ2世」の像がある。ここには多くの花が供えられていて、次々と信者がお参りに来ている。その中にのおばあさんが「冥土の土産にこれ以上のものははい」という雰囲気で、像を撫でながら涙を流していた。他にも何体か教皇の像があるのだが、彼の人気は絶大であったと追記しておこう。

 

ヨハネ・パウロ2世の像

 

なぜ、そんなに慕われているのだろうか。彼についてちょっと調べてみると、1978年の2回目の「コンクラーベ」にて選出されて、2005年に死去するまで教皇を務めたようだ。そして、イスラム教などと争うのではなく、融和を目指して各国を旅し続け、平和を模索し続けた。そのため、カトリックのみならず、他の宗教信者からも信頼を得ているようだ。

 

また、前述のように、1981年にはトルコ人に撃たれて重傷を負うも、なんとか命を取りとめたことがある。奇しくも、この日は5月13日であり、ファティマで「マリア様」が現れた日と同じであった。そのため「意識が戻ったその瞬間、この危機から私を救ってくれた感謝の気持ちを、聖なる母の心が宿るこの聖地に伝えたい(管理人訳)」と語り、お礼参りにファティマを訪れている。

 

そして、さらに驚くべきは、暗殺未遂犯のトルコ人を訪問して、直接話し合ったこともあるというのだ。彼の死から既に10年以上が経過しているのだが、それでも人気が衰えないのは、その懐の深さであろう。納得である。

 

次に総本山のバシリカを広場へ出る。これが結構な広さで、公称30万人収容と言うから、伊達ではない。事実、つい先週の10月13日は「マリア様」が最後に現れた記念日で、広場がいっぱいになる程に巡礼者が集まったようだ。広大な敷地を眺めていると、膝歩きしている人が目に入ってくる。これは、広場の向かって右側から「出現の礼拝堂」前を通る「ひざまづきの回廊」というもので、こうすると祈りが叶うのだろうか。あるいは、信仰心を深めて救われるという感覚を持てるのだろうか。一応雨は上がり青空になっているが、地面はまだびしょびしょだ。皆ズボンを濡らしているが、信仰のためとはいえここまでやるとは、やはり理解できない。

 

バシリカの全景

(右手に案内所、出現の樫木、礼拝堂、中央が出現の泉)

 

案内所とろうそくの奉納所

(手前はひざまづきの回廊)

 

「出現の泉」からみる「バシリカ」

 

ガイドブックに従って、案内所へ立ち寄ってみる。そして、ようやく板についたポルトガル語の挨拶の後、パンフレットをもらう。日本語のものもあるということだったが、品切れのようだ。ただ、それには街の地図が掲載されており、子供たちの家に関する情報の他、出現の場所に関して詳しく書かれている。帰りのバスの時刻を考えれば、ここには7時間程度滞在できるので、当然ながらそれらを巡ろうと考えている。これらの情報はとても有用で、今後の散策の道しるべになることだろう。

 

そう思いながら外に出ると、「杖」を持った人が行列を成している。いや、これは杖ではなく「ろうそく」だ。長さは2m近くもあろうか。その行列の先には火が燃えており、そこにろうそくを投げて祈りをささげるようだ。当方もやってみたいと思うが、行列の最後尾は300 m程度先にある。これだけ並ぶのは嫌いなので、今回は遠慮しておこう。

 

ろうそくを持って並ぶ人々

 

6.蝋人形博物館

 

バシリカの中に入ろうと思うが、正面の舞台では先程同様にミサが行われている。そして、中に入る人、人、人。前述の通り、当方は行列が嫌いなので、ひとまずはバシリカを保留にして「蝋人形博物館」へ行こう。関係ないが、今を遡ること20数年前、河合塾で浪人生活を送っていた我が実兄は、河合塾の校舎を「ロウニンギョウノ館」と冗談めいていた。

 

案内所でもらったファティマの地図を見るが、肝心な施設名はポルトガル語で書かれている。仕方ないので、ガイドブックの地図で「ファティマろう人形博物館」を確認して歩いていく。前述のように、ファティマの街の石畳も、建物も、とても新しい。それは、前回記載した歴史からも明らかで、来年はようやく「出現」からちょうど100年になる。この街も、来年の10月13日は激混みになることだろう。

 

ファティマ市街地の様子

中央の建物が「蝋人形博物館(MUSEU DE CERA)」

 

そう思いながら土産物屋のショウ・ウインドウを見ると、大小様々なマリア様、キリスト様の置物が売られている。値段的には一番安いもので€10ちょっとと、高くはない。しかし、家に置いたとしてもほこりを被ることは明らかなので、購入するには至らなかった。冒頭の写真がそれだ。

 

博物館の入り口で€7.5を支払い、半券と英語版パンフレットをもらって館内に入る。尚、後ろにいた旅行者と思われる老夫婦はそれを見て「そんなに高いの??」みたいなことを言って、出て行ってしまった。「せっかくだから見ていけばいいじゃん」と思うが、それはモノ好きな当方の性格故だろうか。

 

ところで、この博物館の展示内容であるが、至って単純だ。「マリア様の出現の様子をろう人形で再現」してあるのだ。そんなもん、ガイドブックなんかに、いくらでも書いてあるジャンと言われそうだが、詳細まで知りたい。やっぱりモノ好きだね。館内を進んでいくと、最初の場面が現れる。3人の子供が、羊の番をしている所だ。尚、羊飼いは「shepherd」と書かれている。アニメの「ハイジ」に登場する「ペーター」もこれに当たるし、犬の「ヨーゼフ」は「シェパード犬」だ。また、千昌男の元嫁も「シェパードさん」である。

 

話が逸れた。ファティマのろう人形であるが、表情など超リアルである。出現の場面の「シェパード達の驚いた顔」なんて、それにはこっちが驚いちゃうよ。そんな人形を見て、パンフレットを読んで、次々と場面が変わっていく。子供たちは親から「うそつき」呼ばわりされたりしつつも、指示されたようにお祈りと参詣を遂行していく。ただ、彼らはまだ現れた人?が「マリア様」と分かっていなかったようだ。

 

「マリア様」現る

 

月日が経つうちに、興味をもった人がだんだんと増えていき、出現の場所は徐々に混み合うようになる。しかし、姿や声は子供達にしか聞こえなかったようだ。時には「たたり」が起きることを懸念して、地元の聖職者が出現の日に子供達を誘拐・幽閉したこともあったようだ。尚、現地ではこの時、雲が降りてきたがそのまま空に戻っていったということだ。

 

そして、運命の10月13日、集まった7万の人の前に稲妻が光り「私はマリアです。ここに礼拝堂を建てて、祈りを続けなさい」と正体を明かした。その後、太陽の如く明るい光がグルグルと回りながら消えていき、人々は恐怖におののいたそうだ。これが「ファティマの奇跡」である。

 

「マリア様」去る

 

この後、6月13日の予言通り、シェパードの「フランシスコ」と「ジャシンタ」はインフルエンザで亡くなり、残った「ルジア」は修道女となって「コインブラ」の教会で2005年2月13日に亡くなった。前述の「ヨハネ・パウロ2世」がお礼参りにファティマを訪れ、コインブラのルジアにも会ったということだ。

 

7.食事~午後の部

 

ファティマのことをかなり詳しく知ることができて、満足して博物館を出る。時刻も12時だし、ちょっと腹が減ってきた。何か食べたいなあと思っていると「LEBRE」と書かれたファーストフードの店があり、大勢の人が入っていくのが見えた。まあ、無難にここで昼飯にするか。入口から店内を見ると、混み合っているが回転は速そうだなので入店し、トレイを取って「ファンタパイン」を冷蔵庫から出し、列に並んで注文をする。もちろん、ポルトガル語は読めないので「あれ、あれです」と言うと「ラザーニャ??」と聞かれた。「そうそう、それです」と答える。€6.5を支払い、席に着く。

 

なかなかよかったラザーニャ

 

周囲には飲んでいる人も結構いるのだが、宗教の街で昼間からワインなんて飲んでいいのだろうかと疑問に思ってしまった。さて、ラザニアの味だが、結構いけますよ。パスタはもちもちと歯ごたえがあるし、中の引き肉のトマトソース煮も良い。ファーストフードと言うと、化学調味料バンバンのイメージだが、こちらではそうでもない。

 

食事を終えてから、再びバシリカへ行く。前述のように、ファティマが注目されるようになってから100年程度なので、リスボンの建物と比べればずっと新しい。ガイドによれば、1953年に25年の歳月をかけて建設されたとされている。それ故に「ネオ・クラシック」様式と呼ばれており、中央の塔は65 mとこの手の建築物にしてはやけに背が高い。

 

人の波もかなり引いたようなので、建物の中に入ってみる。その造りも他の教会と同じようなものだが、まだまだ新品のように白いので、ちょっと味が無い感もある。祭壇に近づいてみると「キリストの誕生」と思われる絵が見え、両横にはステインドグラスがはめてあり、振り返ればドデカいパイプオルガン、いったいいくらかかっているのかと考えてしまう程、豪華な装備である。

 

バシリカの礼拝堂

 

ステインドグラスと忠誠を誓った様子を描くレリーフ

 

サイドのステインドグラス

 

パイプオルガン

 

再び正面を見ると、祭壇の左にはマリア様を見た3人の墓がある。そして、それぞれにろうそくや花が供えてあり、伝説が真実であると示しているかのようだ。因みに、2005年に亡くなったルジア以外は、元々の墓から掘り起こされてここに再埋葬されたそうだ。周りの信者に倣い、当方もここで十字を切ってお祈りをする。

 

厳かな気持ちで外へ出て、バシリカの裏側に回ってみると駐車場や公園になっていて、弁当を広げている人達が見られた。そのまま右手の方へ回り「ベルリンの壁」を探す。なんでそんなものがここにあるのか。ガイドパンフによれば、ここは平和を祈る場所だからということだ。

 

ガラスのショーケースに入った壁は光が反射してよく見えないが、確かにコンクリートの壁の一部だ。関係ないが、東西ドイツが統合されて、壁をハンマーで壊す人々のライブ映像を見たのは1989年の秋、つまり高校2年生の時だった。歴史の教科書が塗り替えられる瞬間を目撃して、随分と高揚した思い出がある。あの壁がここにあるとは、何とも不思議な感覚だ。

 

ベルリンの壁の一部

 

そんなことを思い出していたら、物乞いが近くに来ており「ジャラジャラ」とカップを振りながら金を無心してくる。だから、俺も無職で収入源がないんだってば。彼女を振り切って広場を横切り、再び出現の樫と礼拝堂を見る。

 

出現の樫

 

先ほどの蝋人形のように木の前でたたずんでいると、子供たちの驚きが再現されるように思えてくる。しかし、実際にはそんなことはなかったのは、言うまでもなかろう。さて、案内所でもらったガイドを見て、子供たちの生家を見に行くことにしよう。前述の通り、帰りのバスは17時発なので、まだまだ時間はたっぷりとある。

 

8.ALJUSTRLへ

 

再び「ベルリンの壁」を通り、物乞いがいないことを確認して、土産物屋街を通過して「サンタ・ANA通り」から「フランシスコ・マルト通り」を歩いていく。ここはもちろん裏通りだが、ここは宗教都市のファティマである。落書きも無く、綺麗な通りで全く危険は感じない。

 

案内の地図によれば、南のラウンドアバウト付近から通じる道があるようだが・・・。あったあった、観光用に整備された歩道だを発見した。交差点の中央に立つ子供達の像を横目に、歩道を歩き始める。

 

南のラウンドアバウト

 

ガイドブックには、ファティマは元々、岩がゴロゴロしている荒地だったという記載があり、この歩道はそういう中にを通っている。そして、チェックポイントのようなものが次々に現れるのだが、これについては後ほど触れるとしよう。おっと、また物乞いが現れる。巡礼の人が集まることを知っていて、そういう人々を待ち構えているのだろうか。それにしても、小さい街にしては多くの物乞いを見かける。それこそ「施し」を受けに教会に行ったらどうだろうか。

 

観光用の歩道

(周りは荒地のようなオリーブ畑)

 

チェックポイントのような礼拝堂

 

帽子を深く被って物乞いポイントを通過し、しばらく行くとトイレがあったので、急ぎではないが用を足しておく。前述のように、いつトイレに行けるかわからないからね。そこからさらに20分ぐらい歩くと、街が見えてきた。ここは「ALJUSTRL」という所で、目撃者3人が生まれた場所だ。

 

この街はファティマよりもさらに小さいが、今まで何もなかった道を歩いてきたので、とても賑やかに見える。沿道にはアズレージョと呼ばれるタイル画、刺繍ののぼりなど大きな土産物がたくさん売られている。買うつもりはないが、ふんふんと眺めつつ歩いていく。

 

ALJUSTALの土産物屋

 

通りの様子

 

呼び込みを避けつつ進んでいくと、ファティマの子供達3人が写る、有名な写真の撮影場所に着いた。ここにはその写真と看板が掲げてある。そして、その隣は「JACINTA」と「FRANCISCO」の家である。

 

「JACINTA」と「FRANCISCO」の家

(右側の家がそれで、左に小さな看板が見える)

 

玄関前

(扉の上の有名な写真は、ここで撮影されたようだ)

 

また、その向いは親戚の家ということで、縁のあるものが展示されていた。関係ないが、前の会社にいた時に「弟子」がいたのだが、それは「由加里」さんであった。シソふりかけも「ゆかり™」だが、昼飯時にご飯にかけていたので「共食い」だと笑ってしまった事を思い出した。

 

ファティマの目撃者となった子供はもう一人「ルシア」がいるが、彼女の家もこの街の中ある。次はこちらへ向かうのだが「バシリカ」の案内所でもらった地図の通りに、さらに南へ歩いていく。すると、寂れた街の外れへ出てくる。もちろん、看板等の案内も無い。おかしいなぁ、地図通りならばこの辺りのはずなんだけど。ウロウロしてみるが、やはり見当たらない。その間、大きな観光バスが何台かやってきて、元来た「フランシスコとジャシンタの家」の方へ入っていった。かなり狭い道だったけど大丈夫か、いやいや、俺の方こそ道に迷って大丈夫か。

 

何かおかしいなぁ、やっぱりここじゃあない。そう思って、バスが行った方へ戻っていく。さらに、フランシスコの家も通り過ぎて、看板がたくさん出ている街の中心である三叉路まで戻ってきた。「おかしい」と思ってそれら看板を見ると「Casa de Vidente Lucisa」と書かれたものがある。これって「ルシアの住んでいた家」ってことなんじゃあないか。

 

その三叉路を左に曲がって数十メートルで「House of Lucia」の看板を発見し、その推測は確信となった。「また地図にダマされたぁ」とがっかりするが、今まで内容に精密すぎる程の印刷物を製作してきたことを、ポルトガルに当てはめても無意味である。そんなもんだよと納得して「ルシア」の家も見ていく。おっと、家の向かい側で人だかりができている。見てみると、かなり年寄りのシスターがにこやかに座っている。写真を撮ってもいいよと許可をもらい、また手と頬に祝福のキスまでいただいた。複雑な気持ちだが、ご利益に期待しよう。

 

ルシアの家の向かいにいるシスター

 

家であるが、やはり普通の農家兼牧畜家の造りである。しかし、ここにファティマの目撃者が住んでいたと思うと、少しロマンを感じるではないか。ガイドにも「ファティマの歴史の一部として、訪れる価値がある」とまで記載されているのだ。

 

ルシアの家

 

その後、同じ敷地内にある案内所に立ち寄ってみると、別のガイドを手に入れることができた。そして、職員から少しわかりにくい英語で「少し戻ったところを左に行くと、記念碑や教会がある。いい場所だから是非寄って行って」と情報ももらうことができた。そういうことなら、行かない手はなかろう。新たにもらったガイドにも地図があり、それを参照すると、バシリカでもらったものと記載内容が違うじゃあないか。

 

まあ、そんなもんだよポルトガル、そう思って土産物屋街を抜けて駐車場を過ぎると「Valinhos」と書かれた場所に到着だ。ここは往路にも通っているのだが「バシリカ」のガイドには詳細が無く、何かわからなかったのだ。因みに、ここは4回目、つまりは1917年8月19日の16時に「マリア様」が現れた場所で、マリア像がおいでる。ここでは「祈りなさい、罪深き人々をいけにえにして。さもないと、人々の魂は地獄へ送られてしまうだろう」とおっしゃったそうだ。

 

「Valinhos」

 

さらに進んでいくと「Loca do Cabeco」という場所だ。ここは「マリア様」の出現の前年、1916年に「幸福の天使」が降りてきた場所だそうだ。つまり、出現の予兆というか、前振りとして「天使の降臨」があったということだ。そこで子供達は「主の祝福があるので、敬愛しなさい」と言う内容のことを聞いたようだ。それにしても、ファティマの「マリア様」達は、とても慈愛に満ちた表情をしている。「俺にも降臨してきて慈愛をくれないか」と思うのだが、そんなことを言っているうちは、まだまだである。

 

 

「Loca do Cabeco」

 

案内所で教えてもらった通り、少し坂を上った所に教会が見えた。これはハンガリー人達が建てたので「ハンガリー人のカルバリ」と呼ばれている。因みに「カルバリ」とは、「キリストが張り付けになったエルサレム付近の丘」のことである。ここでは礼拝が行われていたので、こそっそり中に混じって、意味も知らないのに「Amen」と言ってみたりした。

 

ハンガリー人のカルバリ

 

カルバリから見たファティマの街並み

(右端に「バシリカ」)

 

その後階段で建物の上に上ると、遠くに「バシリカ」も見えてちょっと景色が開けて見えた。確かに良い場所だ。風景を眺めながら、なぜかポルトガルに来て、なぜかカトリックの聖地を訪れている管理人を客観的に見てみる。信仰には全く疎いくせに、全く滑稽だ。しかし、なぜか心が安らぐのは、この街が田舎であり「マリア様」が降りてきたということで、街全体が慈愛に包まれているからに他ならない。

 

少し休息して、バシリカに向けて戻っていくと、呪文のようなことを唱えながら歩く集団に何回か会った。これはお遍路さんじゃあないか、宗教は違えど、やることは一緒なんじゃんと独りで喜んでしまった。あと、補足事項だが、往復に通った観光用歩道は「Way of the Cross(十字架の道?)」、そして随所にある小さい礼拝堂とさっきの「カルバリ」はセットで建築されたもので、総称して「ハンガリー人のカルバリ」と呼ばれている。

 

9.ファティマの街へ戻る

 

「ハンガリー人のカルバリ」から元来た道である「十字架の道」を歩いていく。途中ですれ違う、巡礼者達の年齢層は幅広く、子供から年配者までが含まれている。大人たちは至極真剣な顔で何かを唱えながら歩いているが、子供たちは遠足気分ではしゃいでいる。なるほど、子供は昔から信者であるわけではなく、信者になるのだろう。そういう環境や教育を「洗脳」と言うのだろうか。うまく導かれたならばよいが、原理主義者をはじめとする熱狂的な盲信者になってしまったら、争いが起きるのかもしれない。

 

 

お遍路さんの集団

 

そういうことはないといいな、微笑ましさと危うさを感じながら、道の終わりまでやってきた。おっと、往路にいた物乞いがまだ頑張っている。ここも帽子を深く被り、目を合わさないようにして通過しよう。

 

南のラウンドアバウトの道を渡ろうと思ったら、デミオが走ってきた。そこで、先に車を行かせようと思っていたら、デミオは横断歩道の手前で止まった。ずっと前にも記したが、ポルトガルで歩行者は絶対の存在だ。そこで、手を挙げつつ車のエンブレムを指さして「MAZDA!!」と言ってみた。もちろん、運転手には大うけだったようで、嬉しそうにこちらを見ていた。

 

さて、ここのラウンドアバウト「Shepherds' Circle」と名前が付いていて、その名の通り羊飼いの子供達の像が建っている。少々疲れたので、ここにあるベンチで一休みしながら羊飼い達の驚きに思いを馳せてみる。「マリア様」が現れた時、どんなにか驚いたことだろう。自分だったら凝固してしまい何もできないだろうし、去った後も夢か幻かと思って半信半疑のまま、何事もなかったように過ごすのではないだろうか。

 

交差点の真ん中に立つ3人の子供達

 

時刻は16時30分とバスまでは少し時間があるので、最後に「バシリカ」に立ち寄る。さっき混み合っていた出現の礼拝堂の横には「出現の樫木」が立っている。ここで3人の子供達は「マリア様」に会ったとされており、そして彼女の思し召し通りに、ここに礼拝堂が建設されたのだ。その「出現の礼拝堂」ではミサが行われていて、黒人の牧師が熱っぽく説教をしている。もちろん、何かを言っているのかは不明だ。

 

出現の礼拝堂の様子

(ガラスケースに入った「マリア様」に注目)

 

それよりも、その左上に見えるマリア像に注目だ。ここの冠には「ヨハネパウロ2世」を襲った銃弾が収められているのだ。もちろん、外からは見えないし、多くの人はそれすら知らないことだろう。それどころか、像自体がガラスのケースに入っているので、お顔すらよく見えない。これについては、案内所でもらったパンフレットの表紙に写真が載っている。この街には「マリア様」はたくさんおいでるが、ここのお顔は本当に慈愛に満ちている。これは「たれ目」であり「やや丸顔」そして「微笑んだ半開きの口」が、見たものにそう思わせるのだ。今流に言えば「癒し系(これも結構古いかも)」ということだろう。関係無いが、癒し系と言えば「優香」だろう。彼女も昔は「丸顔」だったし、笑顔が屈託ないところがそう思わせるのだと思う。つまり「マリア様」の要素をいくつか持ち合わせているということだ。

 

ケースの中の「マリア様」

(観光用のガイドから引用)

 

ここにきて、随分と癒された自分に気がついた。どうやらカトリックには、信者かどうかに関わらず、垣根を越えて訴えるものがあるようだ。パウロ2世もそういう精神にのっとり、他宗教との融和を推進したのではないだろうか。そう考えると、彼は心底からキリスト教を理解し、その教えを伝えようとしたことになる。ファティマを去る直前になって、彼の人気の秘密が少しわかったような気がした。

 

10.リスボンへ帰還

 

礼拝堂の「マリア様」にお礼の十字を切って、バスターミナルへ向かう。途中名残惜しくなり、何回か振り返っては高くそびえるバシリカの塔を見る。さようなら、ファティマ。そう思ってターミナルへ行くと、27番レーンには人が並んでいる。往路と違って、復路は混み合いそうだ。

 

陽が傾いてきており、ちょっと寒くなってきた所へバスがやって来た。運転手に乗車券を提示してから、社内へ乗り込む。指定の席51Aを探すと、既に若い女性が隣の51Bに座っている。そこでわざとらしく「51Aはここだなぁ」と言いながら、切符を彼女に見せる。すると「そうね」と言って、詰めてくれた。

 

久々に若い女性と話したので、ドキドキしてしまったことは、言うまでもなかろう。もっとも、彼女はイヤーホンをしているので、こちらには全くのお構いなしだったと残念な補記をしておこう。リスボン行きは定刻を5分強遅れて、ほぼ満席で出発した。そうだよなぁ、90分、150㎞弱も乗車して€10.8なのだから、利用しない手はなかろう。中には小さな子供を連れた家族連れもおり、ぐずる赤ちゃんを必死にあやす両親の姿が印象的だった。窓の外を見ると、暮れゆくオレンジ色の空、遠くまで広がるオリーブの木々が見える。今日はよく歩いたので疲れたし、マリア様にも癒され、快適なバスでの移動。いつの間にか寝てしまっていた。

 

目を覚ますと、18時過ぎになっていた。リスボンはもうすぐだ。

 

第7日目 その2へ続く