管理人 海外へ行く
~ボスニア・ヘルツェゴビナ編~
2018年10月23日 ~ 2018年10月31日


オリンピックホール裏の墓地

10月25日(金)
第3日目 その2

1.噂通りに

大満足で外へ出ると、相変わらずの雲一つない快晴である。しかし、ここからは少し浮かれた気持ちを鎮めていこう。ということで、ホールの出入り口から右へ行き、南側へ回る。

ホールの南側は運動場になっていて、丁度サッカーの選手が練習をしている。こちらは、オリンピックの際の補助グラウンドとして整備されたようだ。しかし、その先には驚くべき光景が広がっている。何と、本来グラウンドであった場所には、おびただしい数の墓標が立っているのだ。墓標の文字を見てみると、死亡した年が1992年となっているのだ。つまり、この時期に激化した内戦によって亡くなった方々の墓地なのだ。

ガイドブックの解説によれば、本来亡くなった方々は従来の墓地で埋葬されるはずだったが、内戦が激しくて墓地まで遺体を運ぶことすらできずに、このグラウンドを墓地としたということだ。それ故に隙間なくご遺体が埋葬されていて、死者の多さを物語っている。因みにその数は20万人とも言われており、第二次大戦後のヨーロッパでは最悪の紛争と言われているのだ。

街は平静を取り戻し、紛争で傷んだ建物も修復され、さらに新しく立派なビル等もたくさん建てられている。しかし、住民にとってはまだまだ心の傷として残っているのではないだろうか。特に遺族の方などは、死ぬまで忘れられないのかもしれないと思ってしまう。

民族の紛争は、日本人には理解できないものである。ヨーロッパをはじめ、大陸では多くの民族がそれぞれの国に住んでいる。何かのきっかけでそれらの間で戦争になってしまうのだが、どうして武力で殺しあう程の事態になってしまうのだろうか。そうなる前に、話し合いはできないものなのだろうか。そんなことを思いながら、時々手を合わせたり、十字を切ったりしながら墓地を一周する。

ホールの西側は「ゼトラリンク」と呼ばれた屋外のスケートリンクとなっているが、中に入ることはできない。ただ、観客席と思われる段々の構造や、電光掲示板のようなものが見えたりする。後日オリンピック当時の映像を確認すると、まさしくスピードスケートのリンクとして使われていた場所であるとわかる。前述の「アキラ・クロイワ」もここを滑ったのだ。


中央の平らなコンクリート部分がリンク跡
(左はオリンピックホール、奥は墓地)

一礼して墓地を後にして、ホールの北側にある丘に登ってみる。すると、隣には開会式の会場となったスタジアムが見える。ここは現在はサッカー等の陸上競技に使われているようで、当方が大好きな「TURKISH AIRLINES」が提供で運営されているようだ。そして、よくよく見てみると聖火台も健在である。


オリンピックスタジアム

先程、映像で開会式の様子を観たのだが、まさしくその現場がここなのだ。小学校5年生の子供がテレビて観たその場所に、今いるのだ。あの頃、まさか自分がここに来るとは夢にも思っていなかった。そう考えると、人生もちょっと生きている価値があるのかもしれないと思えてくる。

2.坂の街

前述のように、今日はとても天気が良くて暖かい、まさしく小春日和である。そろそろオリンピック関連施設を後にして、元来た道を下っていくとしよう。それはそうと、サラエボは盆地であるようだ。谷にある街であり、周りを囲う山々にもへばりつくように家が立ち並んでいる。

また、既に内戦終結から23年が経過しており、現在は平和そのものであるように見える。しかし、すれ違う多くの人々の表情が今一つさえないように感じるのは気のせいだろうか。確かに、昨日行った新市街地のショッピングセンターの若者達には活気があるように思うが、内戦を知る世代の人達のそれはどうもイマイチであるようだ。

この件はガイドブックにも書かれているのだが、それ程までに内戦が激しく、かつ現在もセルビア人とボスニア人との間には「わだかまり」のような感情が残っているということなのだろう。

おや、坂の途中の高架下に市場が出ているので、ちょっと覗いていく。こちらには野菜、果物、肉、魚等の食べ物から、服、雑貨などの日用品まであらゆるものが揃っている。値段も安めであり、住民の台所という言葉がぴったりである。こんなところに見知らぬ東洋人が入って良いものかと思うが、ここはサラエボ。民族のるつぼであり、それほど違和感はない。ということで、何も買わないがちょっと遠慮がちに見えて回る。

お客は近所の主婦とその子供が大半であり、ここはまさにサラエボの人達の日常があるのだ。地元の日常に観光に来た東洋人とは、いかにも不釣り合いだ。しかし、こういう時にこそ一人旅の自由度が活きてくるものだ。そう思うと嬉しくて仕方ないが、そこはぐっとこらえて平静を装う。ただ。ちょっと残念だが、写真を撮るのははばかられた。

市場を出て、その周りにある団地と商店街的な所を見つけて、用もないがそこを通る。時間的に午後のひとときというところなので、ゆったりとした空気であると記しておこう。


団地の商店街

3.展覧会

そこから住宅地の坂を下りきって「アリ・パシナ・ジャミーヤ」と呼ばれるイスラム教寺院を横目に、路面電車の通る大通りを横切る。


大通りの様子
(中央はイスラム寺院)

地図によると、その向こうにはスケートリンクがあるようなので、そちらへ行ってみる。遠くから見ると、看板が出ていてお祭りをやっているようだ。面白そうなのでさらに近くに行ってみると「ギネス記録に挑戦」というようなことが書かれた横断幕があり、そこではクレープのようなものを10人ぐらいの人達が一生懸命焼いている。何だかよくわからないが、こういうどうでも良いことに熱をあげることは大好きだ。是非にギネス記録を塗り替えて欲しい。


お祭りの様子

そう感じつつ、スケートリンクの建物へ入る。

スケートリンクという名前がついているが、現在は展示場と商店街として使われているようだ。また、今日は各地の観光協会がブースを出して、それぞれの魅力を伝える催し物が開催されている。ああそうか、確か横断幕には「Festival Tourism」と書かれていたな。


内部の様子

納得して会場内をウロウロする。どうやら、近隣諸国の観光協会がこちらに来ているようだ。その中の「クロアチア」の前を通りかかると、その風景写真が見事であったので、立ち止まって見入る。すると「こんにちは」と声がかかるので、こちらも「どうも」と答える。

観光協会:旅行でサラエボに?
当方:ああ、そうですよ。
観光協会:クロアチアへは行かないのですか?
当方:残念だけど、1週間しか休みがないので・・・。
観光協会:首都の「ドゥブロブニク」はサラエボからバスで3時間ぐらいだから、是非来てよ!!
当方:そうなのか、うーん、でも今回は難しいな。次回、行きたいね。
観光協会:是非そうしてよ。

こうして、クロアチアの観光ガイドをもらいブースを離れる。そのクロアチアだが、実は全く気にしていなかった国だ。いや、ボスニアさえもよく分かっていないので、隣国まで気が回っていないのだ。しかし、その風景はいかにもヨーロッパの田舎町という感じで、実に好感が持てる。小高い丘に茶色い瓦の家々がずらりと並び、その下には海が見える。そう、ポルトガルのリスボンやポルトのような風景なのだ。これは一見の価値があると思われる。

そんなことを思いながら、地下の商店街の方も見て回る。しかし、何だか薄暗いし、欲しいと思うものもあまりない。また、店員から声がかかるも「Just looking」で切り抜ける。

それにしても今日は良い天気だ。ちょっと疲れたのでお茶を飲もうと思うが、付属しているカフェの屋外席は空席が見当たらない。そこで、広場の花壇に座り、ペットボトルの水を飲んで休息する。そうか、今俺はあの「サラエボ」に来ているのか。やはり夢ではないのだな、痛い、やはりこれは現実なんだ。

日々仕事に追われていると、生きているという実感が全くなくなってしまうが、こうして日常を飛び出して全く自由に行動している時にのみ、現生感を覚える。仕事が生きがいという人も多くいるようだが、少なくとも当方の場合、それは「もう死んでいる」と北斗の拳のセリフを言いたくなってしまう。

4.きままな旅を

さて、ここからどうしようか。ひとまず路面電車に乗って、移動することにし、川の向こうにある停留所を目指す。因みに、今渡っているこの橋だが「Skenderija」という名前で、若き日の「Alexsandre Gustave Eiffel」つまり、パリの「エッフェル塔」を設計したその人の設計ということだ。


Skenderija橋

電車はすぐにやって来るので、早速乗り込む。席に座ってガイドブックを見ていると、3番目ぐらいの停留所で大きな男が3名ドヤドヤと乗ってくる。そして、何やら言ってくるではないか。

「え??何言ってるのかわからない」という顔をしていたのだろう、すると「Ticket!!」と言ってくる。ああ、乗車券の検札か。こいつは驚いた。もちろん、今朝は回数券を買っているので、それを「どうだ」という態度で提出する。すると、男は「ああ、どうも」という表情で券を返してくれ、次の客へ移っていく。因みに、車内に黄色で掲示してある注意書きには「26.65マルクの反則金を払ってもらう」と書かれている。

ちょっとドキドキした心臓を落ち着かせて、考えてみる。こんな1回2マルク(130円程度)にも満たない乗車券を、大の男を3人も使って検査するなんて、何と非効率というか、高コストなことをするのだろうか。今まで他国で公共交通機関には数えきれない程乗っているが、こんなことは初めてだ。特にポルトガルなんて、真面目に切符を買っていないと思われる人の方が圧倒的に多かったぐらいだ。メルボルンに至っては「タダで乗れる区間」がけっこうあり、金を払う必要すらない場合もあったくらいだ。

ああ、これが旧共産圏の名残というものなのだろうか。つまり、コストという意識がまだまだ薄い国情なのだろう。そんなことを考えつつ、川沿いを走る電車からの風景を楽しんでいると「バシチャルシア」地区を通り過ぎている。あ、どこで降りるのかを決めていなかった。

結局旧市街地の中心部「バシチャルシア」地区を通り過ぎて、先ほどのスケートリンクの1本北側の通りまで来てしまう。窓越しにモスクが見えるのだが、大勢の人が集まって大礼拝をおこなっていた。残念、近くで見たかった。

こんなんだったら、そこいらの喫茶店でお茶をしつつ行き先を検討すればよかった。そう思いつつ「スナイパー通り」入口辺りで電車を降りる。さあ、どうするかな。時刻は14時前で、ちょっと腹が減った。しかし、昼食として食べる程でもない。そう思っていると、大きなパンをかじりながら歩いている人々が目につく。

「あれはどこで買ったのかな」とその人たちが歩いてくる方向へ向かってみると、停留所周辺の建物の1階にパン屋を見つける。あ、何だか良さそうな店だ。中に入ってみると、40種類くらいのパンが、ミスドのドーナツのようにショーケースに収まっている。値段は、え、どれも2マルク(130円)以下だ。これはお得なので、ここでおやつを買っていくことにする。

順番がきたので「これをください」と申し出る。だって、字が読めないんだもん。前にも記載したが、ボスニア語はロシア語のような文字が混じっていて、よくわからないのだ。「1.8マルクだよ」と言われるので、支払をする。買ったのは皆が食べていた春巻きみたいなもので、ショーケースに入っているものはそれ程大きく見えなかったのだが、いざ手に持ってみると長さが20㎝ぐらい、太さが4㎝ぐらいの巨大なものだ。ただ、昨日は2個も買って1個は後で食べたので、今日はこれ1つのみだ。

この春巻き、パイの生地を薄く伸ばしたもので、チョコレートが包んである。イケるじゃあないですか。今日はこの国の人々同様に、歩きながらかじる。俺もこの国の人に見えるかなって、どう見ても東洋人だからそれはないだろう。


春巻きチョコパイ

さて、今日は金曜の週末だからだろうか、通りはとても賑わっている。雑踏をかき分けてという程でもないが、通りを東側に歩いて行き、昨日も行ったショッピングセンター「ALTA」へ入る。そしてまた、昨日も行った「LC WAIKIKI」の店へ。ここは服の売り場であり、防寒着を何となく見ていたのだが、一つ気に入ったものがあるのだ。どうしようかと1日考えたが、やはり欲しいので今日は思い切って購入することにしたわけだ。

サイズはLかなと確認してみるが、デカすぎる。Mでも腕が長いのだが、まあ良いでしょう。こいつをレジまで持っていき、100マルク札で64.95マルク(4,000円)のコートを購入する。お釣りを35.05マルクもらい、大きな袋を持って店を出る。結果、これはこの旅の中で買った一番高い物となる。あ、宿代が240マルクだから、それが一番か。因みに、税金は一律17%となっているようだ。時刻は14時過ぎなので、次はどこへ行こうかな。ああ、ちょっと向こうに博物館があるので、行ってみよう。

5.少し勉強

スナイパー通りを歩いていくと、目印となるホテル「ホリデイ・イン」が見える。地図によると、この向かい側に国立博物館があるようだ。ああ、外観はかなり地味であり、かつ工事中だ。益々見栄えがしないではないか。中に入る前に、少し周囲を散策してみる。地図によれば、隣は歴史博物館であるようだ。今回は国立の方へ行ってみることにしているので、歴史の方は外観だけ見ておく。その歴史博物館の裏には喫茶店があり、その前には内戦時に使われたと思われる戦車などがおかれている。


喫茶店の戦車

サラエボと言えば即座に「内戦」と連想するのだが、その激しさたるや、単一民族から形成される東洋の小国から来た者にはよくわからない。ただ、この後旅が進んでいくに従い、その詳細を見ることになる。

「仰々しい武器を使っていたんだな」という程度で戦車前を通過し、国立博物館の入り口に戻ってくる。看板には説明書きがあるので、最初にそれを読んで予習しておく。なになに、1913年に建てられて、「歴史」「自然科学」「民俗学」「図書館」の4つの建物が中庭を囲んでいるようだ。また、それぞれ、105,000、700,000、200,000点の所蔵品を誇っているのか。内戦時には砲撃を受けて、損害を受けたとも記されている。戦争になったら、文化財を守るなんてことは全く考えられないのは当たり前のことだ。


国立博物館の入口

それで思い出したが、兵庫県の姫路が第二次大戦中に空襲を受けているのだが、姫路城は焼夷弾の投下を免れている。「米軍は歴史的価値のあるものを外した」という美談があるようだが、これは真っ赤なウソであるようだ。事実は「爆撃の精度が悪くて、たまたま被弾しなかっただけ」ということらしい。因みに、京都も同様で、初期の原爆投下計画には新潟や広島などと共に候補に挙がっていたのだよ。

入口に入ると、係員が英語で挨拶をしてくる。そして「料金は6マルクで、4つの棟に分かれている・・・」と看板に書いてあったことを教えてくれる。また「歴史ゾーンから見るのをおすすめしますよ」と追加情報をくれた。
どうもありがとうと支払いをして、半券を受け取る

係り員のおすすめ通りに、考古学の棟から見ていく。ギリシャ・ローマ風の建物の柱や、碑文の一部、生活用品などが展示されている。紀元前36年のカエサルがシチリア島を征服した時の碑文には驚いた。因みに、従兄の次男は大学で歴史的な事を勉強しているそうなので、この手のものが好きなのではなかろうか。


考古学棟の展示

次に図書館へ行ってみるが、ロビーまでしか入ることができなかった。そりゃそうだ、素人が重要な書物を触ることなど、そうそう許されるはずもなかろう。ここでトイレを済ませておく。

ということで、自然科学の棟へ向かう。ここはボスニアの野生生物や植物のはく製などが、なかなかリアルに展示してあり、その生態を知ることができる。ただ、ちょっと傷んでいるものがあり、残念だ。まあ、戦火をくぐり抜けてこられただけでもヨシノちゃんであろう。因みに、アオサギもおり、日本と同じような場所に生活していることが確認できたと補記しておこう。あと、昆虫の標本が圧巻で、長さ30m以上、幅が15mぐらいの部屋にびっしりと並んでいる。これをじっくり見たら、それだけでも1日はかかるだろう。

前述のように、ここは中庭を取り囲むように建物が並んでいる。歩き詰めの一日なので、その庭のベンチで一休みする。そして、何気に木にかかっている銘板を見ると「JAPANISKA TRESNJA」と書かれている。ソメイヨシノ桜の木ではないか。やあやあ、こんな所にもあるんだね。


あまり手入れのされていない中庭

休憩後に、民俗学の棟へ入る。ここでは各国の生活様式なんかを、人形を使ってリアルに再現してある。ロビーには中学生と思われる集団がおり、ガイドの話に聞き入っている。言語は英語だったので、当方もガイドしてもらおうと集団の端にいたら先生に見つかってしまう。「すいませんねぇ、こちらから通ってください」と、先へ行くことを促されてしまう。どうやら、生徒がロビーを塞いでいて、通れなくなっていると思っているようだ。

「いや、ガイドさんの話を聞いている」とも言えずに、先へ行くことにする。すると、トルコの新婚の家の様子を示した展示がある。仲人やらがいて、新婚と言えども二人きりにはなりにくいようだ。トルコの新婚さんはお節介にも付き合わねばならないのか。それはそうと、今年は2018年だから、バツイチになって既に16回目の秋を迎えているのか。歳を取るわけだ。

外へ出ると、なにやらでっかい石が置いてある。メモに記録が残っていないので間違いかもしれないが、確か墓だったと記憶している。

あと、建物の入り口に「広島の敷石」と題したレリーフが展示してある。これは実際に被曝して破壊された橋の敷石を使って作られたものであり、広島の団体が平和を願って各国に展示してもらっているもののようだ。そのうちの一つがここボスニアにもあるというのだ。


広島(相生橋?)のレリーフ

博物館って知らないことがたくさんわかって面白いな、と今更ながらに思うのだが、子どもの頃はそんな風には思わなかった。まったくもったいない話だ。当方の住む県庁所在地にも立派な博物館があり、その展示物はサラエボのものよりも良質で、量的にも遥かに多いだろう。それを小学生の時に見ているのだが・・・。まったく勉強しなかったね。

第3日目 その3へ続く

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