永遠の炎
今朝も6時に起床する。少しゆっくりした後、日本の友人達へ送るハガキを書いておく。なるべく早く送っておけば、旅の余韻があるうちにサラエボの雰囲気を届けることができそうだからだ。よし、いつでも送ることができる。
7時になったので、朝飯を食べにグランド・フロアへ下りていく。旅行中は特に野菜の摂取量が減りがちなので、皿の半分は食べるように心掛けている。あと、ソーセージといり卵、果物も食べたいので、みかんとりんごを忘れてはならない。あと、日本にいたらなかなか食べられないであろう、旨いパンも忘れてはならない。
ボスニアスタイルの粉っぽいコーヒーを飲んで締めた後、部屋に戻って休憩する。毎度食べ過ぎてしまうが、昼を食べなければ問題はなかろう。
9時過ぎにフロントへ下りていき、無料パンフレットをもらいつつ、郵便局の事情をたずねる。「今日は土曜日だから、郵便局は休みだよねぇ?」ときりだすと「いや、空いてるよ」と。もちろん、すべての局が空いているわけではいようで、地図を示しながら「ここは空いているよ」と教えてもらう。「どうもありがとう」
ということで、用意したハガキを持って早速出発する。さて、その郵便局は昨日も行った大聖堂のちょっと向こうなので、歩いていく。途中、もらったばかりの無料ガイドに掲載されている「トルコとオーストリアが交わる場所」へ行く。尚、これは「サラエボですべき20のコト」という項目の一つになっている。無料ガイドと言えどもこれは侮れなくて、持参している「地球の歩き方」よりも多くの場所が詳しく書かれている。また、英語を含めた4か国語で書かれているのも素晴らしい。
サラエボ 文化の交差点
いつものように旧市街地の中心を抜けて、多くの店が軒を連ねる路地を行く。すると昨日も行ったイスラム教寺院「カジ・フスレヴ・ベイ・ジャミーヤ」の向こうに、該当の場所がある。多分何回か通っているが、立ち止まるのは初めてだ。ここには「サラエボ 文化の交差点」と書かれている。確かに、ここは異なる民族の人々が、異なる文化を持って融合するコスモポリスだ。
そうだ、俺は国際都市「サラエボ」にいるのだ。東洋の端っこの単一民族国家から来た、何も知らない男がこのような多様な人、もの、文化が存在する街にいる。この大きな溝が旅行の醍醐味でもあるのだ。
感慨にふけりつつ歩いて行くと、通りが収束する場所に出る。ここには「永遠の炎」があるのだが、これは50年以上燃えているそうだ。ガイドの説明によると「第二次世界大戦中にサラエボの解放(ナチスから?)した英雄達の存在を忘れないように」と燃えているそうだ。
余計なことを考えていたら、一本通りを間違えてしまったよ。地図を見て、狭い路地を縦に進む。すると、朝から飲んで酔っ払っているジイサンのグループと出くわす。「おい、お前どこから来たんだ?」と声をかけられたので、思わず「日本さ」と答えてしまった。すると「こっちへ来て飲もうぜ」と誘われてしまう。「いや、いいよ」と言うがはやいか、なにやら奥に向かって大声で話している。どうやら「(新入り旅行者のために)酒をもう一杯持って来いよ」と言っているようだった。
こんなところで酔っ払うのも悪くないが、そうやって時間を無駄にしたくないので「俺は酒は飲めない」と言ってその場を立ち去る。こういう時こそ、ダカールで身につけた「言ってることがわからないフリ作戦」を発動すべき時だよね。
こうして、9時30分頃に郵便局に到着する。中では数人の職員が窓口にいる。そして「ハガキを2枚、日本に送りたいのだが」と申し出ると「3マルクね」と返答がある。つまり、1枚1.5マルク(90円)ということか。お金を払うと「切手はこれでよいか?」と見せてくれるので「それでいいよ」と答える。局員はそれをハガキに貼ると「バン・バン」と勢いよく消印を押している。これで終了だ。
郵便局の外観
余談だが、郵便局と言うとやはりダカールの局を思い出してしまう。空港の中にある大きな局?であるのに、ワイロ(チップ?)を請求されたり、汚い箱に入れろと言われたり、まったく驚いたよ。気になる人は、以前に書いた旅行記を参照願おう。
無事にハガキを出したので、どうしようか。時刻は10時なので、お茶でも飲もうかな。喫茶店でお茶を飲むと2マルク(130円)程度なので、気軽に店に入る。
メニューを見て、アップルティーを2マルクで注文する。「外のテーブルでお願い」と言うと「持っていくから待っていてくれ」と言われる。英語もちょっと慣れてきたので、少しテンポ良く受け答えができるようになったかな?今後も、この調子でいきたいものだ。
お茶はティーバッグのもので大したことはないが、異国のカフェの屋外テーブルで飲むお茶は格別だ。普段は気楽に喫茶店になど行かないので、なんだかすごい贅沢している気分になるなぁ。さて、隣のテーブルにもオバサンが座っているが、足が若干不自由なようで、落とした書類を拾うのに苦労している。まあ、大した手間でもないので、ちょっとお手伝いをする。「どうもありがとう」と丁寧にお礼を言われたので、良い気分だ。
喫茶店でちょっと一服
さて、休憩もこのくらいにして、♪知らない街を歩いてみよう。今日は土曜日なので、街はお休みモードだ。団地の中を歩いて行くと、人垣ができている。何かな?と近寄ってみる。なんど、公園では巨大チェスをやっているではないか。また、公園では人々がくつろいでおり、和やかな雰囲気である。内戦の面影などまったくないのだが、セルビア人とボスニア人の間にはわだかまりが残っているということだ。それが証拠に、居住区域はくっきりと分けられている。
巨大チェスをさしている
団地からミリャッカ川の方へ歩いていくと、聖堂に負けないくらいの背の高い建物に出会う。これは1868年に「Andrija Damajanov」というロシア人?により建てられた「Orthodox Church」である。内部は見られなかったが、ガイドブックによれば「細かい細工と絵」が呼び物となっているようだ。尚、サラエボではインターネットから音声ガイドをダウンロードできるようになっていて、建物なりの詳しい説明を聴くこともできるようだ。もっとも、スマホがない当方は、残念ながら利用できない。
その名の通りの教会
さて、サラエボと言えば、歴史好きならば必ず思い出すことがある。それは「サラエボ事件」であり、まさにそれが起こったその場所には博物館がある。ということで、そのまま通りを東に向かって歩いて行く。朝が早いわけでもないが、週末ということで人通りもまばらである。それにしても、女性はショールを巻いている人が多い。顔立ちはスラブ系だが、宗教はイスラム教を信じているということの証だ。なんだか不思議だが、これこそが文化の交差点であるサラエボなのである。
前述のように、博物館は事件のあった「ラテン橋」の所にある。館内に入り、挨拶をして料金4マルク(250円)を支払う。館内は「オーストリア・ハンガリー」帝国に併合された当時のボスニアの様子が、生活用品等などを使って解説してある。ちょうど写真も登場した頃なのだろうか、割と多く見られる(写真は1800年代中ごろには既にあったようだ)。
ラテン橋の所にある博物館
オスマン・トルコの侵入、工業化により建てられたレンガ造りの工場、当時のパスポートやら調度品、いろいろなものが展示されている。だが、一番気になるのは、オーストリアの皇太子夫妻の暗殺だろう。これについては、実は2回実行されて、2回目に成功?したということだ。最初はラテン橋よりも数百メートル西側で爆弾を投げつけたのだが、失敗。旧市庁舎で会議の後、帰る途中の車に乗った夫妻を、ラテン橋のたもとで銃殺したということだ。
館内の様子
文章の解説はこんな感じだが、こちらもまさにその時の写真が残っていて、その騒動のすごさが伝わってくる。そりゃそうだ、日本ならばアメリカ大統領夫妻が、あの黒い車にのって皇居辺りを走行している際「バキュン」ということになったら、えらいことだからね。
サラエボ事件の様子を写した写真
サラエボと言えば、この1919年の7月28日の「サラエボ事件」が有名だが、これは「悪名高き」という但し書きが付く。これをなんとかしたいと考えた当時の「ユーゴスラビア」が、1984年にオリンピックを誘致したというわけだ。これも先に記したが、この時に日本の「サッポロ」も12年ぶりの開催を目指して立候補しており、一騎打ちとなっている。下馬評では、施設をそのまま使える「サッポロ有利」となっていたが、最後に上手くまとめたサラエボが勝利したということだ。
民族・文化の交差点であるボスニアは、昔からキナ臭い雰囲気があったわけだ。民族問題は日本人には理解できないが、この国に住む人たちにとっては、各々の民族意識が誇りと言うか、人間としての尊厳というか、そういうものなのだろう。
サラエボ事件の博物館を出た後、旧市街地の中心へ行く。それはそうと、川の向かい側にも立派なモスクが見える。調べてみると、これは1460年頃に、時のオスマン・トルコのスルタン(支配者の呼称)、メフメト2世を称えて建設されたものだそうだ。無料ガイドブックによると、サラエボのイスラム教徒たちの間では、一番信頼のあるモスクのうちの一つ、ということだ。
皇帝のモスク
旧市街地に戻り、特徴的な丸屋根の建物へ行く。これは「ブルザ・ベジスタン」と呼ばれる、旧の絹取引所がある。円形の屋根が、いかにもイスラム世界の建物という外観である。ガイドブックによれば、ここは16世紀に、時の支配者オスマン・トルコの宰相が建設したものだそうだ。また、「ブルザ」とは絹の産地であり、そこから運ばれたものが取引されたということだ。そして、現在では歴史博物館として利用されている。
ブルザ・ベジスタン
ちょっと興味があるので、こちらにも入ってみる。料金は3マルク(200円)なので、お得である。広い展示スペースには、サラエボの歴史が有史以前、古代、中世と紹介されている。さらにはこの土地柄や商業の発展など、違う切り口からも説明がある。その中でも特に、オスマン朝時代のサラエボが模型で再現されており、その周りに古代からサラエボ事件辺りまでの都市の変遷、生活の変化などがわかるような展示がされている。その内容は調度品、服装、武器、と視覚的なものが多いので、我々外国人にもわかりやすい。もっとも、説明書きも多いので、それを丹念に読んでいると疲れてしまう程だ。
オスマン朝時代のサラエボ
上流階級の服装
博物館を出た時点で時刻は11時30分なので、まだまだ時間はある。さて、どこへ行くか。そうだ「トンネル」へ行ってみようか。これは内戦が激しかったとき、サラエボ空港の下に文字通りのトンネルを掘り、市民が避難する時に使用したものだ。空港は国連軍が抑えていたので、辛うじてこのようなことができたというわけだ。
今日はいつもの停留所で5回の回数券を購入して、路面電車3系統に乗る。旧市街地からスナイパー通りを抜けて、終点の「イリジャ」まで移動だ。この路線は何回か乗っているので、ちょっと慣れてきた。
30分ぐらいかかって終点に到着する。ここはサラエボ初日にも来ており、多くのバスが発着するターミナルがあることも確認済だ。ガイドブックによれば、ここから32系統のバスに乗って行くそうだ。しかし、プラットホームが4列あり、どこからそのバスが出るのかわからない。そこで、停車中のバスの運転手に「トンネルに行きたいのですが、どのプラットホームからバスがでるのですか?」とたずねてみる。すると「Peron 4だよ」と教えてもらう。どうもありがとう。
バスターミナルの様子
どうやら、ボスニア語ではプラットホームに当たる単語が「Peron」であるようだ。そう思ってバスを待つ。こちらのバスは日本のものよりも大きく、ヨーロッパの規格である。もちろん、連接バスもあり、巨大である。免許的には当方でも運転できるんだけど、これは難しいだろう。それにしても、なぜかバスには「ISTANBUL」の文字が書かれている。何でかは、ボスニア語がわからないので不明だ。
あ、バスが来たよ。乗車する時に料金と「トンネルに行くか」とたずねてみる。「行くよ、1.6マルクね」と教えてもらう。
第4日目 その2へ続く